なにかが、おかしい…
今、学校で何が起きているのか?
浦和コミセン第13集会室がいっぱいになる79名の方が参加してくださいました。
保育は1年生の男女一人ずつと3歳男児一人をお預かりしました。
お話してくださった高原史朗さん(大学講師、元さいたま市立中学校教師)
わかりやすくユーモアのある温かい語り口と現状に対する鋭い分析に
アンケートでもまたお話を聞きたいという声が多数でした。
◆道徳の授業の現場で
正式な教科となった道徳は学習指導要領に「多様な意見の尊重と論議」とあるにもかかわらず「22の項目の教育目標」が設定されているので教師はそれにとらわれてしまう。
その矛盾のせいで子どもが混乱しても「責任阻却(そきゃく・責任をとらなくてもよい)の論理」で誰も責任をとらない。
そして特定の価値観に従って異論が排除されてゆく体制が学校に広がっている。
◆「学校スタンダード」の実態
「学校スタンダード」とは”学校での「生活と学習」には守るべき規範があり、それを細部にわたって徹底する指導”の名称。正しさも含んでいるのでめんどくさい。
*参加者のみた例*
職員室に入るルールが超細かく決まっている。
姿勢を規定するフレーズ「ピンピタグー」。
中学の下着の色が白と決まっていて違う色を着た時学校から電話がかかってきた。
給食は残してはいけなくて、残したら給食室に謝りに行く。etc.
学校全体が一定の正しさでそれ以外を認めない。
道徳の教科化は氷山の一角。それを受け入れてしまう危機的な状況。
例外を認めず排除する「指導」が「ゼロトランス(不寛容)」
教師は専門職として子どもが何か起こしたことに対して一人一人の事情を確認して対応しなければ解決にならないのに、「学校スタンダード」では罰し、叱り、処分して終わり。
◆学校だけでなく、社会も、私たち自身も、学校化している
伝統的な一斉授業方式・同調圧力・学力競争下の学校教育は「学校スタンダード」と親和性が高い。
◆学校をゆがめているもの
教師の多忙→楽だから「学校スタンダード」「ゼロトレランス」はリンクしている。
学力向上を学力テストによって可視化するアカウンタビリティー(計測可能なものの公開責任)でテスト結果の序列化によってすべてが飲み込まれてゆく。
「勉強」も「生活」もすべて統一された基準ですすんでいく傾向が強くなっている。
これは危ない。
その子の進路に対して親身に相談することは点数化出来ない。
◆学校はどこに向かっていくのだろう
◇学習面では
OECD生徒の学習到達度調査(PISA)のテストでよい成績をとることが良いことだという価値観が生まれ、それにあわせた統一基準の学力テストが生まれる。
今後の予測
→効率をよくするなら授業の上手な先生のビデオを見る
→AIの学習アプリを使って個別に学ぶ
8月にあった全教師の新座での研修にきたのは経産省と学習アプリの民間会社。
先生に対して「仕事が楽になりますよ」
◇生活面では
「学校スタンダード」からはみ出した者は生徒指導、生活指導は「警察」が担う。
発達障害や不登校は医療機関が担う。
欧米のエリート校は学習アプリは使わない。
よい環境で丁寧にやって、子ども同士議論し白熱教室状態。
◇そして子どもたちの意識の変化
排除されない子どもたちには、排除された子どもたちへの蔑視が生まれる。
その事情とか経緯についておもいやることがない。
学習アプリで点数は取れても、社会について学べない。
社会矛盾の中で起きていることが理解できない。
蔑んでもよいと思うようになり差別を学んでいるともいえる。
「学習スタンダード」は勉強の問題だけにとどまらない。
新自由主義(自己責任論)がこの世界を席巻している。思想の問題。
◆最後に
ドラマ「やすらぎの郷」の主題歌「慕情」より
◆質疑応答より
―私たちに出来ることは?
私たちが繋がること。本音を言える状況を作ること。
ハンナ・アーレントが言っている。
悪は思考停止から始まる。
思考停止はどこから来るかというと、
思っていることを言わなくなることから始まる。
立場を越えて違和感を感じることが繋がるルーツではないかと思う。
リレーカフェは違和感を感じるところから企画を出して、いろんな方を呼んだり、映画を観たりしていますよね。こういう活動がすごく重要だなと思っています。
変だなと思うことや、どうしたんだろうと思うことを、黙ってないで交流することが今一番大事だと思っています。
※(9/22)高原史朗先生より「言い忘れていました!」と追加依頼がありました
◆学校と市民が共感し共同的につながりましょう
この情勢の中で、教師も悪戦苦闘しています。
違和感を持ち、どうすればいいのかを考えているのは、皆さんと同じなのです。
むしろ現場で直接指導に当たる分、苦悩は大きかったりもするのです。
ここを是非分かって欲しい。
違和感を持ち、どうすればいいのかを考えているのは、皆さんと同じなのです。
むしろ現場で直接指導に当たる分、苦悩は大きかったりもするのです。
ここを是非分かって欲しい。
対立は、思考停止を生むもう一つの手段です。
学校や先生と対立的にならないことが重要です。
共感・共同的なつながりが一層重要と考えます。学校や先生と対立的にならないことが重要です。
高原先生の書かれたご本
※9/24感想まとめを追記
当日集まった感想と後日届いたメールから、いくつかを紹介します。
◎は事務局でまとめ。★は届いた感想の抜粋です。
◎は事務局でまとめ。★は届いた感想の抜粋です。
◎講師の話に聴き入った、もっとお話を聴きたかった、という感想が多数ありました。
◎「学校スタンダード」についても、今までずっと違和感をもっていたという方も、初めて知り驚きの連続だったという方もおり、また今後、子どもをどう支えていけばいいのか不安と危機感を感じる声も多く寄せられました。
◎教育について、こういう場の設定が今後も必要だという声も多数ありました。是非、継続していきたいと思います。
★スタンダード自体が、一見良いことのように見えるので、多くの人がそれを当たり前のことと認識してしまい、スタンダードの枠に合致しない生徒を排除していく状況に気づかされました。私は教員を目指しているので、正しいとされているものが必ずしもそうとは限らないということを忘れず、何よりも子どもたちに寄り添い、声をきいてあげること、一緒に考えてあげる姿勢が重要であると思いました。(学生)
★初めて参加して、とても身に沁みる話が多くて、あっという間に過ぎてしまいました。これからの人生において、大きな一日になると思います。(学生)
★これから教員を目指しているのですが、色々な観点から教育について観られました。(学生)
★学校の中で”ルール”を守らせることへのモヤモヤを共有できてよかったです。
★教職や色々な形で小・中学校と関わってきましたが、全く知らなかったことも多く、驚きの連続でした。
個性の尊重といいながら、枠にはめていく教育はおかしいと思います。
★外国にルーツをもつ中学生に日本語支援をしています。こんなに息苦しい学校に行っているということを知り愕然としました。排除の論理の中にいる生徒の事情をよく分かって支援を続けようと思います。
★子どもの小学校をみていると、学校全体の「スタンダード」はそれほどないように思います。いろいろ規制や管理も多いと思いますが、全体効率上、仕方ないのかと思うことも多々あります。
★ゼロトレランスは、教育現場には全くなじまない考え方だと思う。
★「おたすけ箱」のある教室、増えてほしいです。
★生活指導の本質は保護者にあると私は思います
★生活の中でも、異質なものを排除するという価値観に触れることも多くあります。
★上の子から10年ほど小学校を見てきた個人的な実感をして、いわゆる「学校スタンダード」に近い、不寛容で多様性をあまり意識しない対応をする先生は、残念ながらどちらかというと、定年間近の大ベテランの先生方でした。中堅ないしは若い先生の方が、きちんとお話すれば、打てば響くような対応をしてくださいます。
その一方で、千代田区の麹町中学の校長先生が書かれた『学校の「当たり前」をやめた』(工藤勇一著)を読まれている校長先生もいらっしゃいます。
★「教師にとってやりがいのあることなら時間をかけても徒労感はない」という感覚が、時間の観念を忘れさせる一面になることもある。
次に教育問題をとりあげるときは、「学校の多忙化」「部活問題」「採用試験倍率低下」「残業代裁判」(埼玉の先生が原告)なども問題を取り上げていただければ嬉しいです。
★学校を外の力で少しずつ変えていく必要があると強く思いました。
★スタンダードにこだわらない学校、息苦しさのない学校、多様性を認め合う学校になるような、社会、市民の側からの流れを作っていかなくてはいけないと思います。繋がっていくことをやり続けなくては!
※参加された方へお知らせ
会場の後ろの方の机の上に忘れ物がありました。
落とし主のかたはブログのお問合せからご連絡ください。
コメント
コメント一覧 (7)
素晴らしいお話で、いろんなことを考えさせられました。
話が飛躍しますが、戦後の日本経済は、アメリカから怒涛のように入ってきた
新しい経営管理手法を巧みに取り入れて高度成長を成し遂げました。
その中にはフレデリック・テーラーの科学的管理法やデミング博士から指導を受けた
クォリティ・コントロール(品質管理)の手法があります。
前者は生産工程を細かく分け、要素ごとの動作を分析したり、時間を計測したりして
生産工程を効率化することを目的としていました。
また後者は一つ一つの部品の品質が一定の許容範囲に収まるようにするための手法で、
これにより日本の製品の品質は「安かろう、悪かろう」から「高品質」へと脱皮しました。
品質管理手法は、その対象を製品からサービス、そして経営管理手法にまで広げることになりました。
それでうまくいったので、それを人を育てる営みである教育の分野に持ち込んでいるのが、
学校スタンダード現象ではないかとムツゴローは思いました。
しかし、人はモノではありません。ルールや決まりは確かに必要です。ルールや決まりは
それが何のためにあるのかをわきまえてその弊害や限界を知り、適切かつ柔軟に運用することが
大事なのです。(手加減とバランス)
そんなことを考えながら聞いていました。
高原先生、いいお話を有難うございました。また世話人の皆さんにもお礼を申し上げます。
今回の企画では、あれこれと陰の部分でも知恵をいただき、助かりました。
昨日は学習会の余韻が消えず、なかなか寝付けませんでした。
高原さんのお話の凄さ(面白くて・鋭い)は勿論ですが、予想をはるかに超える会場いっぱいの参加者の皆さんと一緒に、あのような時間と場を共有できたことが嬉しくて、嬉しくて、その余韻に浸っていました。
学校スタンダードとは、ムツゴロウーさんのおっしゃるように経営管理手法の「学校版」という指摘に納得です。なぜ、経営管理手法が、人と人の関係で築かれていくはずの教育現場に、これほど深く急速に入り込んできたのか?
自論ですが、もともと「教師・生徒」で営まれる「授業」は、《生徒の「納得」~教師の「強制力」》の範囲の中で成り立ちます。
教師が生徒に発言を求めた時、全生徒が「私は、発言したくありません」と反応したら授業その物が成り立たない。そうなると、教師は強く強く生徒に発言を強制してゆく方向に陥りやすいのだと思います。
その典型が「感想文」の強要だと思っています。
心の内を素直に書いて他者に読んでもらうかどうかは、生徒の内心の自由に従うべきものです。
「嫌」なら書かなくて当然です。
一般の人間関係ならあり得ないことが、教育現場では無意識のうちに成り立ってしまっているのです。
こうした、本質的に存在する「学校の論理」の中に経営管理手法がマッチしたのだと理解しました。
「強制され」その結果を「評価され」、それを仕方ないとして、どこかにおかしさを感じながらも「空気」のように受け入れてしまっている現実が、毎日、子ども達の成長環境で繰り返されています。
歯がゆさを禁じ得ません。
もう一つ、昨日びっくりしたのは8月に行われた新座市の教員研修の話でした。
管理人が紹介してくれたように、経産省と民間業者が堂々と研修の場に乗り込んでくる・・・。
今や、文科省以上の力を持って、経産省が教育現場をリードしている実態です。
私の塾に、今年2月にある塾産業から「研修会」の案内が届きました。
見ると「探求ラーニングラボDAY1 経産省「未来の教室」実証事業:探求学習の普及・推進研修会」とありました。警戒しながら参加してみました。
AIやWEB等も駆使した動画で、子ども達が嬉々として「学習」している様子も映されました。
講師も、若くて魅力的な話をされました。
子ども達の探求心を育てることを信じ、一生懸命に開発している姿に、共感さえ覚えました。
動画内容もすごく面白くて子ども達は喜ぶだろうと思いました。
2月に「実証事業」を展開していた経産省が、半年後のこの夏休みには市教委主催の研修会でメインを務めている、この速さにびっくりでした。おそらく、他市でも進んでいるのだろうと思われます。
学校スタンダードの「なぜ?」が解明され、こうした方向の行き着く方向も見えて来て、さて、では「どうしたら良いのか?」が次のテーマです。
高原さんがお話された「リレーカフェのような場こそ大切」という言葉に凄く励まされました。
私の塾の父母にもいろいろ意見を聴きながら、父母と一緒に「リレーカフェの山のぼる教室・保護者版」になれるよう、私は私の持ち場を活かして、試行錯誤してゆきたいと思います。
リレーカフェのお陰で、私自身も見識が広がり、新たな繋がりが広がり、感謝しています。
今後とも宜しくお願い致します。
改めて埼玉リレーカフェに感謝です。
高原先生は体験されてきた出来事をわかりやすくおもしろくあたたかく話して下さいました。
今の学校のことは道徳が教科になったあたりから、なんか変だなとうすうす感じてはいましたが
今日お話しを聞いてビックリとやっぱりか~~です。
子どもたちが問題行動?をした場合に、それを叱り、時に排除するのではなく
何でそうなったのか、どういう事情だったのか、そうなった気持ちはどこにあるのか
を考える。
子育てにも通じますね。(子育ては終わりましたが(^^;)
私たちに何ができるか、のところですが
昨年道徳が教科になった時、山のぼるさんに教えてもらって
私も近所の自分の子どもたちが卒業した小学校に道徳の授業を参観に行きました。
近所のママたちは「あれっ○○さん、なんでここにいるの?どうしたの?」
知り合いの子どもたちも、アッあのおばちゃんだ、なんで???という視線。
とういう反応でしたが、それもいいんじゃないでしょうか。
そう言えば授業で「同じです」の連発でしたね。
担当の先生や教頭、校長ともお話しができて
「また、参観の時に来てください」と言われました。
何回も行って顔を合わせ親近感をお互いに持って
先生たちと少しでも本音で話せればいいなと思います。
想定以上の参加者で関心の高さを実感しました。
又、講演後も、意見表明したい人は多数いたのではと感じました。
このテーマはレーカフエで継続して学習会をしてほしいという声も
耳にしました。
学習会としては大成功だったと思います。
4人の孫を持つジジとして、学校に通わせること自体、不安を覚えます。
いろいろ考えさせられました。
学校と言うのは、児童が健やかに成長するために、まず自我を確立し、
母親から離れ、いろんな人がいるという多様性を認識し、自分と違っても
他者を許すという寛容性などを育むことを期待します。
ところが今の学校現場は、スタンダードをむやみやたら決め、それを犯す者
は排除するという不寛容を教えるらしい。
真逆の事を教える学校に希望はないとすら思います。
グループトークの中で、学校開放日があり、誰でもが、自由に授業が参観できる
ようです。市民が学校に行き、どんな授業をしているのか知ることもアリかなと思います。
又、市民が見ることで、教育行政者に緊張感を与える効果もあるかなと思います。
逆に作用し、実態を隠す、又、現場の先生にいたずらにストレスを与えると言った
期待しない反応をするかも判りませんね。
同時に子どもの不登校が増えてとまらない原因の1つは学校スタンダードなんだろうと考えました。
勉強以外の行動にいちいち管理されたら、息がつまります。
息がつまるから、自由にしている子が許せなくなる。
しかし私は学校関係の当事者なんですが、学校スタンダードをなくせばよいとは思えません。
必要悪として学校側は使わざるをえないんだろうと思います。
教師は★十人という子どもの集団を一人で動かさないといけないから。
だけど人ないお金ない状況では、やはり異質な子は排除はされなくても、
白い目でみられちゃうんでしょうね。
だって先生の仕事を増やしちゃうんだから。
学校に人ないお金ない状況は国の政策によるから、すぐにかわるとは思えません。
だからできる人が学校ボランティアして、現場の負担を軽くしてあげればよいと思います。
たとえ自分の子どもが卒業しても、ちらりと顔を出して、
お手伝いしますよといえば、大喜びすると思うのです。学校のみなさんは。
どうか現場が「そう」であるのはなせか?と想像して、
現場の方々の気持ちをリラックスさせてください。
外の空気を学校に入れること、大事です。
ある意味、学校は「教師の王国」でもあるので。