コラム:山のぼるさん

「発言力」で、学力は測れるのか?
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 私の塾の6年生の授業は、1年生の授業の後に始まります。

12月のある日のこと、1年生の授業の終わるのを待っていた6年生達が何やら一生懸命に喋っていました。

授業が始まったのですが、どうにも納まりそうにないので、耳を傾けることにしました。

彼らの話題は、担任の教師の評価でした。中心になって気勢を挙げていたのはA子。

いわく「あったまにきちゃう!手を挙げて発言しない子は、成績を下げるよ~だって!嫌みだよね!」。

                 

  挙手をして発言しなければ、成績は下がっても仕方ないのか?

 どうして、そんなに怒るの?と聞くと、「待ってました」とばかりに気合が入った言葉が返ってきました。

あんな奴、大嫌いだし、信頼もしていないし。そんな奴の授業で発言なんかしたくないよ~!

大体さ、授業だっていい加減だし、何やってるか分かんないし、発言しろって言ったって無理でしょ!

 

A子が「頭にくる」のは分かるが、怒りの矛先が違う、と指摘しました。

「好きな先生」・「嫌いな先生」は昔から誰にでもある、「発言しないと、成績が下がるよ」という文句こそ、怒りの対象にすべきだ、と話を切り出しました。

 

A子のように、「発言をしないと成績が下がる」と感じている子どもは多いでしょう。

もしかすると、「そりゃあ、そうよ」と思っている保護者も多いかもしれません。

しかし、それで良いのでしょうか?


 
発言しない子は、学力が低いのか?

 「成績の評価は学力の到達度に対して行われる」と言うのであれば、多くの方が納得するでしょう。

だとすれば、問題は「挙手をして発言する」ことは、学力の重要な要素なのか?ということになります。

 

しかし、私が塾で教えてきた経験からすると「否」です。

卑近な例を挙げましょう。

 

今春、浦和一女に合格した女子生徒がいます。浦和一女と言えば、埼玉では名門校です。

彼女は、小1から小6まで、私の算数・国語の授業を受けてきました。

もともと、発言の多い子ではないのですが、数人のクラスなので、日に何度かは発言してきました。

ところが、5年生頃から、全く発言をしなくなったのです。問いかけても、頷いたり、笑みを浮かべたりするだけです。でも、人の発言はきちんと聞いているのです。

そして、国語の記述や作文を書かせると、驚くほど見事な思考の結果を見せてくれました。

発言をたくさんすれることが、高学力の証ではないのです。

子ども達が発言しない理由は、学習内容に主体的に関わっていないからではないのです。

この女子生徒の場合、自分の中ですっきりとしていないのに、教師や周囲の生徒の前で表現することが恥ずかしかったのだと思います。思春期の特性も背景にあったのでしょう。

 

自分自身の中でしっかり理解し、それを言語化することは、大事です。

しかし、人前で、限られた時間に思いついた言葉で発言するより、自分の中で、言葉をじっくり熟成するほうが合っている子だっているのです。むしろ、そういう子の方が誠実なのかもしれない、と思うこともあります。

「発言力」=「高学力」という構図は、明らかに間違っていると思います。


「学力」でもない「発言力」が、なぜ成績評価の対象になるのか

 十年ほど昔、挙手の回数をメモにして、それを評価資料にする教師がテレビ画面に映し出されたことがあります。そのバカバカしさに溜息をついたことを思い出しました。しかし今では、成績評価の対象として「挙手と発言」が、「学校」に根付いてしまったようです。

 

そのきっかけは、2007年の「教育基本法」の改訂にあります。

翌2008年には、それに伴って「学校教育法30条」に、次のような「学力の3要素」が書き込まれたのです。

(丸付き数字は筆者による)

 

 ①基礎的な知識及び技能を習得させるとともに、

 ②これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくみ、

 ③主体的に学習に取り組む態度を養うことに、特に意を用いなければならない。

 

一体、「主体的に取り組む態度」とは、どんな「態度」のことなのでしょう?

学問的にも、定義づけされていません。

定義が不明確なまま、個人に任される筈の「態度」を法律に謳ったのです。

私は、そもそも学問に向き合うこと自身が「主体的」な営みである筈だと思っています。

ですから、黙々とじっくり学習テーマに向き合うことも「主体的に取り組む態度」の筈です。

この法律は二重に間違っていると思えるのです。

 

その結果、充分な検証も経ずに、「挙手と発言」が「主体的な学ぶ姿勢であり、積極的な表現力」と同義であるかのように、現場に浸透していったとしたら、大問題です。犠牲になるのは、結局子ども達です。


「40人学級」で本音の発言を出し合えるのか?

 私は、今年、さいたま市内の公立小学校の公開授業に、2度参加しました。

2年と4年の道徳の授業でした。どちらも36人クラスでした。

 

4年生にもなると、見事に子ども達が教師の意向を「忖度」します。

授業は、教師の投げ掛ける「問い」と、事前に準備した「掲示物」で進行します。

「なぜ、たかし君は、お母さんの請求書を見た時涙を見せたのでしょう?」と問われたら、まさか「先生、こんなに短い文章から、そんなことまで分かる筈がありません!」などとは発言できません。

「お母さんが、たかしのためにしてくれていることはお金で測れるようなものではなくて、家族への愛だったと気づいたからです」と、「まともな」発言をしなければ、36人の授業が45分間で終わるわけがないことは、子ども達にも暗黙の了解事項になっているのでしょう。

45分間の授業は、あらかじめの「指導計画」に基づいて「丸く」納まってしまったように、映りました。


行政に求められること

法律で定めるべきは、「学力の3条件」ではないでしょう。

「40人学級」をせめて「30人学級」にすることだと思うのです。

そして、道徳・英語・プログラミング・・・と次々に教師の仕事を増やすのでなく、増やすべきは教師の数ではないでしょうか。

一人一人が、もっとゆったりと本音で関わり合えるような教育条件を整えることこそ、行政にとって喫緊の課題だと思います。

 

そしてまた、本当に子どもたちに「主体的に思考し判断する」ことを求めるのであれば、A子達のような教師や学校への不満を、みんなで話し合い、学校の運営に子ども自身が主体的に関わっていけるように、「学校」を変えていくべきではないでしょうか。

今の日本の「学校」を見ていると、すべてが逆に逆に進んでいるように思えてなりません。

新しい年には、子ども達がもっと主体的に生きていけるような環境を考え、創っていきたいものです。

市民の皆さんと共に。