報告:山のぼるさん
5月26日(土)、さいたま市立A小学校の公開授業で「道徳」を見学しました。
ムツゴローさん、寅さん、そして先日知り合いになった某新聞記者とも会場で出会い、共に参加しました。
この日、A小学校の全クラスでは、2時間目と3時間目を公開。
殆どのクラスが、どちらかの授業を「道徳」に充てていました。
今春から「特別の教科」として授業が始まった「道徳」です。興味津々でした。
私は2年生と1年生の「道徳」を見学させてもらいました。
学校の授業を見学するのは生まれて初めてです。
2コマの授業を通して、子ども達の健気な姿と、二人のベテラン先生の素晴らしい授業展開に感激。
お二人とも全く違うタイプの授業でしたが、それぞれ魅力的な授業でした。
見学する側も、子どもの発言に思わず吹き出したり、頷いたり。
子ども達と先生が一緒になって作っていく授業には、思わず引き込まれてしまいました。
「公開授業」に向けて、先生方がどれだけの時間を費やされたかと思うと、頭が下がる思いです。
しかし、ちょっと待てよ、と思いました。
授業技術が見事であればあるほど、子ども達は、授業の影響を受けることになります。
ですから、より重要なことは、授業の見栄えではなく授業の内容です。
「教科化」によって、教科書を使うことが法的に義務付けられました。
ですから、教える側が、教科書の教材をどのように評価するかで授業内容が大きく変わってくる筈です。
今回は、この日、2年生の授業で扱われた教材『るっぺ どうしたの』を紹介しようと思います。
さいたま市が昨年採択した教育出版の道徳教科書にある教材本文と、設問です。
この教材から、子ども達は何を感じ、どんなことを考えるでしょう?
皆さんも、どうぞお読み下さい。
この教材から、子ども達は何を感じ、どんなことを考えるでしょう?
皆さんも、どうぞお読み下さい。
我々大人が、子ども達の学習内容に関心を持つことから始めましょう。
多くの方のコメントをお待ちしています。
※参考資料
【談話】中学道徳教科書の検定結果お寄りb教科書の特徴について
2018年4月13日 俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
※参考資料
【談話】中学道徳教科書の検定結果お寄りb教科書の特徴について
2018年4月13日 俵義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
報告:ムツゴローさん
※公立学校における生徒指導の驚きの流れとして下記の情報をお知らせします。
この日、ムツゴローは、3年3組の道徳の授業を見学しました。
テーマは「気分のコントロール」となっていました。
気がついたことや感じたことを順不同に書きます。
机が教壇に向かってコの字型に並べられていました。
生徒の一人に「いつもこんな風に並んでいるの?」と尋ねたら
「道徳の時間だけ」と答えました。
確かに道徳の時間が終わったら、
生徒たちが、全員が教壇に向かい合う一斉授業の形に戻していました。
確かに道徳の時間が終わったら、
生徒たちが、全員が教壇に向かい合う一斉授業の形に戻していました。
先生が生徒たちに問いかけ、考えさせて答えさせるという形式で、
先生のファシリテーション能力は高いと感じました。
また生徒たちも積極的に手を挙げ、自分の言葉で答えていました。
また生徒たちも積極的に手を挙げ、自分の言葉で答えていました。
参加態度もよく、楽しそうに見えました。
授業が始まる前に一人の生徒に「道徳の授業は面白い?」と聞いたら
「面白い」と答えました。
「面白い」と答えました。
先生は、生徒をさん付けで読んでいました。男の子に対してもです。
授業の冒頭に先生は「正しいということがわかっているのにできなかったという経験をした人」といって手をあげさせました。
半分ぐらいが手を挙げていたと思います。
半分ぐらいが手を挙げていたと思います。
この日の題材は、主人公のT君がお兄ちゃんの友達F君にラジコンカーのリモコンを貸してあげたら、F君が乱暴な運転をし、公園にいた女の子Gちゃんを怪我させそうになったので、「やめてよ」といってやめさせたことについて色々考えてもらうというものです。
質問は、
「T君はなぜやめてよと言えたのか」
「もし自分がT君だったら言えるだろうか」
「T君はなぜやめてよと言えたのか」
「もし自分がT君だったら言えるだろうか」
「いうとしたらどのように言うだろうか」
「言えたとしたらどんな気持ちになるだろうか」
「言えたとしたらどんな気持ちになるだろうか」
「自分をコントロールして正しいことをするためには何が必要だろうか」などなど。
質問への答について先生は「道徳に100点満点はない」と言いましたが、
「正解はない」とは言いませんでした。
でも生徒たちは、「こういう場合はこうしなければいけないのかな」という風に受け取ったように思いました。
でも生徒たちは、「こういう場合はこうしなければいけないのかな」という風に受け取ったように思いました。
先生の授業のゴールは、一連のやり取りを通じて、正しいと思うことをするときに感じる「ためらい」の気持ちにどう対処するかを自分のこととして、しっかり振り返させることだという風にムツゴローは理解しました。
もしムツゴローが先生だったら、主人公の役とF君の役を生徒にやらせて(ロールプレイ)それぞれの気持ちを推測させ、どのように言ってやめさせるのがいいのかを話し合ってもらうワークを入れると思います。
あと怖くて言えないようなときにどうするかを話し合ってみるのもいいかな、と思います。
例えば女の子に「危ないからこっちにきて」というとか。
あと怖くて言えないようなときにどうするかを話し合ってみるのもいいかな、と思います。
例えば女の子に「危ないからこっちにきて」というとか。
このテーマの指導の手引きがどうなっているかムツゴローは知りませんが、
総じていうと、担任の先生はよく考えてよくやっているなというのが率直な感想でした。
※公立学校における生徒指導の驚きの流れとして下記の情報をお知らせします。
ちょ、マジか。。。
— ikupie 📣 (@ikupienonks) 2018年5月27日
ラインで回ってきたんやけど、大阪府立高校の生活指導についての夏期研修会。講師が自衛隊員で演題が「自衛隊における隊員指導の心得」て。 pic.twitter.com/1ornDwjRrI
コメント
コメント一覧 (9)
道徳の授業を公開するのは、いいですね。
まだまだ手さぐりでしょうが、先生の資質も問わずることになりそうですね。
先生方がむしろそれを楽しんで、縛られずにやっていただけるといいなぁと思います。
それにしても教科にする必要はないと思いますが。
教科にする必要はありませんし、なのに、なぜ教科にしたのか?こそが問題だと思います。
大体、文科省の言う19~22項目の「内容項目(=徳目)(=道徳的価値)」は、どんな学問体系を背景にして、誰が決めるのでしょう?
「算数」なら、まさか「かけ算は足し算と同じです」などと教える先生はいません。
「算数」の背景に、長年研究された学問体系があるからです。
「道徳」には、そうした学問体系がありません。
しかも日本の法律では、「教科」には「教科書」が作られ、その教科書で授業をすることが義務づけられます。そして、その「教科書」も国の検定に合格しなければ、「教科書」に採用されないシステムになっています。
結果は、時の権力者の恣意的な「道徳的価値」が国定教科書に採り入れられ、教師はその教科書を使わないと、法律に違反することになるわけです。
「教科化」以前なら、まだ、教師の資質に期待できる幅が大きかったのですが、教科化されると根本が違ってきます。良心ある教師の意志がますます追いやられてしまうのです。
さいたま市教委が学校の推薦を無視して、なんの根拠も示さずに採択した「教育出版」は、中でもとりわけ劣悪な内容を持っています。
「憲法に基づく市民道徳」を私達市民と先生方との力を合わせて創り上げていくことが、今まで以上に大切になっていると思います。
>「憲法に基づく市民道徳」を私達市民と先生方との力を合わせて創り上げていくことが、今まで以上に大切になっていると思います。
山のぼるさんの仰る通りですね。
ところで仲町小学校は公開授業の目的をどのように考えているのでしょうか。
当然、父兄や市民からのフィードバックを期待しているのでしょうね。
であるならば、意見や感想を聞く場があってしかるべきだと思います。
もしそういう機会があるのであれば、参加して授業の作り方や進め方についての
学校側の考えを聞いて、市民の意見を開陳したいですね。
機会がなければ、こちらから申し入れるというのはどうでしょう。
私が参観した4年生クラスのテーマは、「心と心の握手・・・ほんとうの親切とは(だったと思う)」でした
小学4年生のボク(仮に、あつお君とします)は、お母さんとの約束があったので、学校が終わって、急いで家に向かっていた
坂道で、お婆さんが、重そうな荷物を持って難儀そうに歩いていた。足も悪いようだった
あつお君は、お婆さんに、荷物を持ちましょうか?と声をかけるが、断られる
家に帰ってそのことをお母さんに話すと、お母さんは、いいことをしたわねえ、とあつお君をほめた
そして、
実は、おばあさんは、最近近所に引っ越してきた人で、歩く練習をしているのだと、教えてくれた
数日して、同じ坂道で、あつお君は再びそのおに婆さん出会った
今度は、あつお君は声は掛けずに、お婆さんの後をついて行った
お婆さんが家に着くと、お婆さんの娘さんが笑顔で出迎えて、「ずいぶん歩けるようになったわね」と、お婆さんに言った
それを見たあつお君は、ほっとして、明るい気持ちになった
そして、お婆さんと、心と心の握手をしたような気がした
・・・・・・・
最初あつお君が老婆に声を掛けたのは親切、その次に、老婆の気持ちを深く考えて、声を掛けずに見守ったのがほんとうの親切、ということに、簡単にいえばなります
その結論に到達するために、先生と子どもたちが、考え話し合う、という授業でした
私は、あつお君と老婆のエピソードが、19歳の時読んだ、「カラマーゾフの兄弟」の、アリョーシャとスネギリョフ退役二等大尉とのエピソードに似ているような気がしました
19歳の自分は、当時、悩み迷い、自己否定の旅を続けていました
その頃、自分を支えてくれたのがカラマーゾフの兄弟でした
三島由紀夫の自死があった頃でもありました
若者の心を魅了するきらびやかな三島文学の「毒」から私を救ってくれたのも、カラマーゾフの兄弟だったような気がします
話が横道に逸れました
私の尊敬する、児童文学の泰斗、アッツーオ・サイトリアーナ先生に聞いて見たい気がします
19歳の私が出会って、悪戦苦闘して、未だ確固たる信念を持つことができないでいる、「親切と本当の親切」を、
45分の授業で、35人の小学4年生の子供たちに、手際よく教えてしまう功罪を
私自身は、恥ずかしながらどちらの作品も読んでいません。ドイツで「ファウスト」の像のところにも行きましたが、作品に対しての思い入れがなかったので、いつか、これから読んでみたいと思う作品のひとつです。(あぁ、生きてるうちに、間にあうかしら・・・。)
寅さんが19歳で『カラマーゾフの兄弟』を読んだことは、今の寅さんの中に残っているのですね。
物語で心が動き、自問し、反芻する
言葉にならない思いが、何年も何年も後に、ようやく「言葉」になることもあります。
前川喜平さんも、先日の対談のあとのカードに、「みんな悩んで大きくなった。悩まなければ大人になれない」と書かれました。
悩むための一人の時間、
光となる、誰かの行いや言葉との出会い、
自然界とのつながり、
そんな時間と空間の中で、
行きつ戻りつ、自己ができていくように思います。
45分の授業で、手際よく「道徳」を教えることはできないと思うけれど、
子どもにとって、
言葉にならない「引っ掛かり」のようなものを、
心のどこかに温めておけるような、
時間と空間がありますように、と願っています。
私も、まりもさんの仰る、「引っかかり」言い換えれば、考えるきっかけを子どもたちが持ってくれたらいいな、と思います
でも、この道徳教育を進めている人たちは、きっかけづくりで満足するような方々とは思えません
この人たちは、ガッチガチの鋳型人間をつくり、人間の魂を殺すかわりに、考えないこと、悩まないことの平安を、
そんなものは欲しくもないのに!
与えてくださる人たちだとおもいます
あつお君が、最初におばあさんに会った時、おばあさんは重そうな荷物を持って、「石につまずいて転びそうになった」のです。しかも、リハビリ中のおばあさんは、杖1本です。
ここでは、私なら、おばあさんが断っても、荷物を持つと思います。
杖1本で、重そうに荷物をもち、石につまずいて転びそうになったんですから、この状況は危険だと判断します。仮に、もしこのお年寄りが転んだら、下手したら寝たきりになってしまいます。
私の父がそうでした。
さらに、あつお君が2回目に会った時、おばあさんは「不自由な足を一生けん命動かして坂を上って」いました。また、「なんだかこの前より足どりが重いような気がした」と書いてあります。
あつお君はこの時、声を掛けずに、家まで見届けます。
すると、おばあさんのことを心配して玄関で待っていたむすめさんが、「だいぶ歩けるようになったねえ」と出迎えます。
私には、この娘さんが意地悪な偽善者にしか見えません。
心配なら、なぜ、せめて坂の下まで迎えにいかないのか?
お年寄りが転んだらどうなるか、ということを、普通、こうした親を持つ娘なら分かっている筈です。
私には、坂道を荷物を持って杖1本で歩いてくる母親を、家で待っている娘が信じられない。
あつお君も、坂道を登る時の様子と、自分が心配でついてきたことを、おばあさんの家の人に伝えなければいけません。
「要支援」システムが導入され、高齢者が「自立」してゆけるように支援するのが、今の日本です。
しかし、実際は「要支援」の高齢者がリハビリで「自立」してゆけることはまれです。
せめて、足腰の衰えをいくぶんか緩やかにする、というのが実情ではないでしょうか。
私の父も生前、デイサービスに行きましたが、どのお年寄りも、そのようだったと記憶しています。
「心と心のあく手」という教材も、実に劣悪です。
ここに登場するようなお年寄りを、心で励ますことを美徳とするような子どもに育ってはいけません。
こんな教材で授業するくらいなら、お年寄りのデイサービスを見学して、職員に話を聞いた方がよっぽどまともです。
「心情」「情緒」に流されては危険です。