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水野スウさんのブログ、紅茶な気持ちに、また皆さんに読んでもらいたいすてきな文章を見つけました。18日付けの、飯田進さんの投げたボールのゆくえというものです。13日に93歳で亡くなった元BC級戦犯の飯田さんと、SEALDsの奥田さんとの交流について書かれています。最後の言葉がまた感動なんです。
というわけでご紹介します。
◇飯田さんの投げたボールのゆくえ: 紅茶なきもち
◇飯田さんの投げたボールのゆくえ: 紅茶なきもち
あの戦争を生き残った私からあなたへ飯田進 (社会福祉法人「青い鳥」名誉顧問/元BC級戦犯)http://politas.jp/features/8/article/475***一部抜粋 (どうぞ、全文お読み下さい)戦争のことを忘れるどころではない。日々、身を切り刻むような思いで過ごしてきた。それが、私にとっての戦後70年だ。朝から晩まで身を切り刻む思いをして人間は生きられるわけはない。しかしそれに耐え、私は後の世を生きる若者たちにあの戦争の記録をきちんと残しておきたい。その思いは日々募るばかりだ。もちろんこれは極めて荷の重い仕事である。しかし、野垂れ死にした兵士たちもまた、それぞれ未来に夢を抱いていた若者だった。彼らの無念の思いを代弁しなければならない。それを伝え得る、私は最後の一人だからだ。今、私は92歳、もう余命いくばくもないどころではない。最近、うれしいことがあった。4年前、私は島根県の山奥にある高校に頼まれて、特別授業を行った。明治時代の無教会派のキリスト教徒、内村鑑三の教えを受けて創立された、山奥の小さな、小さな学校だ。出雲空港から車で2時間以上かけてようやくたどり着いたその学校に3日間滞在し、生徒たちと胸を突き合わせて戦争体験を語った。私たちはいくらでも語り合った。語り合わずにはおれなかった。生徒からぴんぴんと、生きた反応が返ってくるんだ。あんなに手応えのある語り合いは初めてだった。そしてたくさんの生徒が感想文を書いて送ってくれた。私は涙がこみ上げるのを押さえることができなかった。長い間、壁あつき部屋にいた私の人生の、それは一縷の救いであった。その生徒たちの中にいた一人の青年が、今SEALDsという団体のリーダーとして、何万人もの人々を率いて平和を求めるデモをしている。この間、彼がうちに来て「あのとき、僕は飯田先生の目の前に座って話を聞きました」と言うんだ。彼が高校生のときに記した感想文には「次に先生に会ったとき、先生から投げられたボールを返せるように生きていきたい」と書かれていた。私が投げたのは、ほんの小さなボールでしかない。だが、見ず知らずの学生に投げたそのボールが今、予想もしない大きなうねりとなっている。こんなに素晴らしいことがあるか。一体何が人間にとって最も望ましい生き方なのか、92歳になった今もよくわからない。人にはさまざまな生き方がある。さまざまな生き方が望ましいんだ。70億の人間の中には平気で人を殺す連中もいれば、そうでない者もいる。だがしかし、みんな必死になって生きている。それぞれ信じる道を歩んでいる。必死になって、己を正しいと信じた道を歩むのは、正しい。だから、私はかつて自分が信じた「正しさ」の暗部と向き合い、あなた方に伝えたいと思う。嫌なことには目を向けたくない習性が、人にはある。しかし、この習性は個人には許されても、国家や民族には許されない。70年前のことをすっかり忘れる集団健忘症は、また別の形で、より大きな過ちを繰り返させるものだと、私は危惧する。日本がこれからどうなっていくのか、それは私にはわからない。現に日本国の総理大臣は、私の思いとは全く違う道を歩み、国民を引っ張ろうとしている。しかし、国民はそれを許さないだろう。世界を見渡せば失望、あるいは絶望する要素はいくらでも見つけることができる。しかし、逆もまた真なり。人間の未来を考えたとき、私は若い人たちに希望を託さざるを得ない。だから、あなたたち一人一人に伝えたい。心の中に壁厚き部屋を持ち、ものごとを深く考え、真理を追究しなさい。そのうえで、それぞれが大いに遊べ。大いに人生をエンジョイしろ。またとない人生の、生きる喜びを享受しなさい。これが、あの戦争を生き残った私からの最後の言葉だ。**************病室には、奥田愛基くんと一緒に撮った写真が飾られていたとのこと。飯田さんが投げたボール、きちんとうけとめられたことの、おおきなおおきな意味。どの人もきっとちがうボールをなげられるとおもう、生きてきた中で、これだけは伝えなくちゃと思うことを。☆・・・☆飯田進さん死去、93歳 元BC級戦犯、反戦訴え(東京新聞)
著者プロフィール
飯田進
いいだ・すすむ
社会福祉法人「青い鳥」名誉顧問/元BC級戦犯
1923年(大正12年)、京都府生まれ。1943年(昭和18年)2月に海軍民政府職員としてニューギニア島へ。戦後、BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。1950年(昭和25年)にスガモ・プリズンに送還。釈放後、長男がサリドマイド薬害被害による障害を持って生まれたことをきっかけに、障害児童福祉に取り組み続ける。社会福祉法人「青い鳥」名誉顧問。著書に『魂鎮への道』(岩波現代文庫)、『地獄の日本兵』(新潮新書)、『たとえ明日世界が滅びるとしても』(梨の木舎)など。
コメント
コメント一覧 (1)
素晴らしいお話 ありがとうございます
あの戦争を実際に戦ってきた方は、もうかなり少ないでしょう
できるだけ多くの方に、お話を聞いていただきたいです
私の父のは、晩年老人学校に行ってワープロを習い、
そこでの課題で「戦争体験」を書いたようです
父が亡くなってしばらくしてから、引き出しを開けたら
数ページに綴じた「覚書」が出てきました
父がしっかり残してくれた 大切な宝物で
「ひだまり」(元平和委員会)で、企画した会で
何回かお話したことがあります
私たちの代には、体験者のバトンを「戦争を知らない子」たちに渡す
役目があると思って、今までやってきました
飯田さんのお話が、奥田君に届いていたとはね!
しかも、奥田君のベースには「内村鑑三」があったとは!
彼のこれからの活躍に期待します